愛媛県宇和島市のクボタ歯科医院です。患者さんにリラックスして明るい雰気の中で治療を受けていただくことをモットーにしています。

〒798-0040
愛媛県宇和島市中央町1丁目3-4
ご予約電話番号0895-22-1036
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当医院の歴史
 もしも興味がおありでしたら、久保田歯科医院の歴史をお読みになってください。
当医院の移り変わり

明治23年ごろ私の祖父に当たる初代久保田巌が宇和島市中の町(今の京町)に開院しました。
 しばらくして、鎌原通り(今の京町)の下の方、昔の小桜田家の上隣に移り、明治37年に旧名追手通り25番地、今の料亭丸水の下隣に新築移転。ここは現在美容室になっております。


 しかしそれに満足しない祖父は大陸への思い止まず、台湾・琉球視察旅行の後、明治38年にまだ日露戦争が完全に終結しないうちに、愛媛県知事の証明書を携えて大連に渡り大山通り旧遼東ホテルの前に開業、後に200mばかり日本橋よりの、辻某医師所有の家屋を買いうけて転居、特に中国人の間で大変評判が良かったそうです。
 大正10年私の父久保田謙次郎が東京歯科医専卒業後内地(日本本土)より帰り、医院を引き継ぎました。その後、昭和20年の終戦まで久保田歯科医院は43年間に渡り、満州国大連の地で中国人日本人の分け隔てなく歯科医療に専心し、この地元人から得た信頼が後の終戦後の混乱期に、幾度となく父の命を救ってくれたのです。


 引き上げにより大連の久保田歯科医院は閉鎖されたわけですが、昭和23年の秋に今の京町、当時は鎌原通りと呼ばれた閑静な住宅地の樋口邸に間借りして開業しました。祖父が始めて開業した地に46年ぶりに戻ってきたわけです。日本が敗戦国となり、再び日本の地に帰ってくるなどとは思ってもいなかったであろうと推測します。
 多くの患者さんの支えで、昭和28年に、現在地に進出することが出来ました。旧町名は本町、今では中央町などという味も素っ気も無い、城下町の名残の片鱗をもとどめないオカシナ町名ですけど。


 昭和50年に立て替えて今の南フランス風の建物になりました。なるべく無粋な医院風の建物を避けたいという私の遊び心です。廃業したら「カフェ」でもやろうかなんて思っているんですよ。
歴代院長の歴史
初代 久保田 巌
 初代すなわち創立者の久保田巌は私の祖父で、寛政の時代より豊後の国臼杵藩に剣道指南番として使えた、久保田家の六代目にあたります。その九州の人間がなぜ四国で・・といいますと、人の人生のめぐり合わせというものは本当に不思議なものでございます。
 廃藩置県により禄を失った久保田家は多くの旧武家と同じく灯油を商いますが、御多分にもれず武士の商法。また石油の出現もあって大損を被ります。そこで一念発起した巌は歯科医を志し上京して、日本橋の某歯科医院、神田の顕微鏡学院、水道橋の現東京歯科大学の祖高山歯科医学院に学びました。
 明治23年歯科医師開業試験法が施行されるにあたり京都で受験、文部大臣より免状を受けたのですが、なんとこれが第1号。我が家の家宝になっています。その後故郷の臼杵にかえろうと大阪から船を乗り継いで九州に下る途中、旅籠で発病し、同宿の宇和島在住の居村某夫人に助けられ、宇和島に寄って療養することを勧められました。この人は宇和島銀行頭取居村繁次郎氏の母君に当たるそうです。
 居村家で厄介になっているうちに、勧められてこの地で開業することにしました。はじめは旧中の町(今の京町)、後に今の本町追手、料亭丸水の下隣(今は美容室になっている)に新築移転しました。

二代目 久保田 謙次郎
 大正10年。父謙次郎が東京歯科医学専門学校を卒業し渡米の準備をしていたところ、祖父の体調が悪くなり、急遽大連に帰って跡を継ぐことになります。 祖父は大正12年に宇和島に隠居、今私たちが住んでいる愛宕町の家で療養しておりましたが、約一年後に逝去。桑折直先生に大変手厚い看護を受けたと父がよく申しておりました。父は開業のほかに色々な余技に堪能でしたが、大連は内地(日本のことです)から旧満州へ入る玄関口に当たるので、郷里宇和島周辺や同窓の人たちの面倒をよくみていました。そういった方々が始終家に出入りしておられたのを、子供心に不思議に思っておりましたが。故郷、祖国への思いが強かったのだと思います。
  昭和20年の終戦後も父は中国当局に信頼されて開業を続けておりました。祖父同様中国の人たちを平素から大事にしていて、友人も多かったのが幸いしたようです。人を大切にするということを、無言のうちに私に教えてくれ、これが父からもらった一番の遺産です。
  昭和21年。母と私は英彦丸と言う貨物船で舞鶴に引き上げます。抑留が長引くと予想していた父も幸運なことにまもなく病院船高砂丸で中国当局発行の医師の免許で病人の人たちの看護をしながら佐世保に帰ってきました。宇和島の家を親戚のひとたちに管理してもらっていたので、ひとまず別府にあった家に落ち着くことにしましたが、ここも見知らぬ人が住んでいて、一間を空けてもらい同居生活です。これはあの当時はごく当たり前のことだったのです。帰国後父は大連でお世話をすることになった、佐々木いくお氏率いる伊方開拓団の方々が入植地を探して四国、九州中を歩き回り、その間も開拓団員の生活の糧を得るために、西海の船越で開拓網を起こし、親船に乗って漁師生活をしていました。殆ど母と二人の留守番生活で、狭い畑を耕して芋やとうもろこし、野菜などを作る自給自足の毎日生活でしたが、この時期が私の人生のなかでももっとも充足された期間のひとつでした。
 開拓団の入植が九州の杵築に決まり一段落した頃、父が親しくして頂いた、M,S,Gなど歯科関係の商社社長さん方のお勧めでやっと御神輿をあげ、宇和島に帰って開業することになりました。昭和23年のことです。開業地は旧鎌原通りの樋口虎若邸に間借りです。今の京町、社会保険病院の前で、現在も目を引く洋館が健在で御子孫がすんでおられます。当時社会保険病院は鎌原通り上の角のほんの一角で、今の様には広くなく、丸島邸、樋口邸、森邸などたくさんの塀に囲まれたお屋敷が続いていて閑静な高級住宅街でした。
 昭和28年に現在の地に木造モルタル二階建ての医院を新築して移転しました。周囲はまだ、戦災の跡が方々に残っていて、崩れ残った土塀の中でとうもろこしが実っていたり、といった状態で、角にショップガイド、つぎが中浦内科、そして3軒目が当久保田歯科医院で今日に続いております。

三代目 久保田 晃
 昭和42年に大学院を終えて私が帰ってきて、父の元で修行を始めました。博士号をもらったからといってもこの世界ではほんのひよこです。何もかも教わることばかりの毎日、そしてそろそろ歯医者としての技術や心構えがわかってきた昭和49年の暮れに父の許しを得て、医院を改築に取り掛かり50年の6月に完成。今の医院です。その間は新町の花柳ビルの3階、広見町に新築移転した長山歯科の跡で仮診療をしていました。
 私が帰ってきた頃から歯科界は過去に無かった急速の進歩を遂げ始め、もうホントに勉強しなければならないことばかりが次から次へと山済みで気が遠くなりそうでした。色々な研修会を追っかけて東奔西走の日々でした。霞ヶ関のポスト・グラデュエート・センターに毎月二年間通い、仕上げにアメリカの南加大學に短期留学したのは、歯科医術に関する私の概念の基礎を形成してくれました。
 アメリカに留学しようとして、祖父の病気で果たせなかった父の理解で、いやな顔一つせず自由に勉強に出してもらったことを感謝しています。還暦を過ぎましたが、今ひとがんばりするつもりです。久保田歯科を育んでくださった郷里の人たちに恩返しのつもりで残った人生を送ります。

四代目 久保田 敦
 祖父、父、私と3代がお世話になった東京歯科大学の大学院で麻酔を勉強して、しばらく東大の麻酔科に勤務しておりましたが、最新のインプラントを勉強するために、ボストンのハーバード大学の大学院インプラント科で修行(いまどきの若い人たちには通じない言葉かもしれません)して、帰国後私のところで働いておりましたが、幸いにも勧めてくださる方がありまして、現在は松山市の余戸で久保田歯科インプラントセンターを開業しておりましたが、これまた中をもってくださるかたがたのご支援で、昨年8月、道後湯の町で「三世インプラントセンター」を開設いたしました。からくり時計から正面に見えます。
私と同様どうかよろしくお願いいたします。

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